"ザ・クラッシュ"(1976-1985)...

凋落(1985-1999)

1年後の1986年、彼は再びジョーンズと共に活動し、アメリカ映画『シド・アンド・ナンシー』に楽曲を提供している。ジョーンズとはこの映画の後にも活動を共にし、ジョーンズの結成したバンド"ビッグ・オーディオ・ダイナマイト"の2ndアルバムに参加している。

1987年にはアレックス・コックス監督の映画『ウォーカー』に出演し、映画のサウンドトラックにも楽曲提供。同じ年に上映された映画『ストレート・トゥ・ヘル』にも出演している。1987年秋から1988年にかけては、病気のフィリップ・シェヴロンに代わってギタリストとしてザ・ポーグスのツアーに参加。1989年にはジム・ジャームッシュ監督の映画『ミステリー・トレイン』に脇役として出演。1990年にはアキ・カウリスマキ監督作品『コントラクト・キラー』にも出演を果たし、作中ではパブで演奏をするギタリストとして、ザ・ポーグスから提供された2曲を歌っている。この時期、彼は映画での仕事を主に行っており、俳優としての仕事のみならず、上記以外の複数の映画への楽曲提供を行っている。

1989年、バンド"ラティーノ・ロカビリー・ウォー"と共にソロ・アルバムの作成に取り掛かるが、その後発表したアルバム『アースクエイク・ウェザー』は商業的に失敗に終わり、ソニー・レコードとの契約を失う。この前後10年間ほどは鳴かず飛ばずの時代であった。1990年にはザ・ポーグスのアルバム『ヘルズ・ディッチ』のプロデューサーを努め、1991年にはシェイン・マガウアンの脱退を受けてバンドに加入し、ライブツアーのヴォーカルを務めた。1994年4月16日には、チェコ系アメリカ人のバンド"ダーティー・ピクチャーズ"と共にプラハで開催されたユーゴスラビア紛争難民のためのチャリティーライブに出演。このライブでは再びクラッシュ時代の楽曲を披露している。

彼自身はクラッシュ解散からこの時期までを、「荒野の数年間」(''The wilderness years'')と評しており、クラッシュ解散以後、華やかな世界からは姿を消していたが、1995年には"レヴェラーズ"、1996年には"ブラック・グレープ"といったイギリスのヒットチャートに登場するミュージシャンたちと活動し、再び華やかな音楽の世界へと姿を見せた。

"クラッシュ"結成まで(1952-1976)

トルコのアンカラで生まれる。父親は外交官で、各国へ転勤したため彼はその幼年期を多くの国で過ごした。彼は10歳の時兄のデヴィッドと共にロンドン近郊のサリーにある私立学校、シティ・オブ・ロンドン・フリーメンズ・スクールに寄宿生として入学する。学生時代彼は両親に会うことはほとんど無かった。この頃彼はビートルズやビーチ・ボーイズ、ローリング・ストーンズ、ウッディ・ガスリーのレコードを聴くようになり、ロックへの興味を持ち始めた(この影響からか、彼はクラッシュを結成して名前を“ジョー・ストラマー”に改めるまで、“ウッディ”と名乗っていた時期もあった)。在学中、兄のデヴィッドが自殺。彼とデヴィッドは兄弟として決して親しい間柄ではなかったようだが、デヴィッドの自殺は彼の人生観を決定的に変えた出来事であった。白人至上主義を標榜するイギリス国民戦線にデヴィッドが入党していた事、そしてそれが何らかの形で彼の自殺につながったのではないかと当時のジョーには思えた事が、後にクラッシュが反ファシズムの姿勢を明確に打ち出す一因になったと考えられている。1970年、私立学校を卒業した彼は、プロの風刺漫画家を目指し、ロンドン・セントラル・スクール・オブ・アート&デザインに入学。在学中は、ロンドン北部のパルマーズ・グリーンでクライヴ・ティンパレイ(Clive Timperley)とタイモン・ドッグとともにフラットシェアをしている。

1973年、ウェールズにあるニューポートに転居し、ニューポート・カレッジ・オブ・アートに入学するが、まもなく退学。この頃、彼は友人たちとザ・ヴァルチャーズというバンドを結成。正式なメンバーとしてではなく、時々ヴォーカルとリズム・ギターとして活動していたが、1974年に解散。この間彼は墓掘りの仕事をしていた。解散後、ロンドンに戻り、ドッグと再会。しばらくの間、路上で演奏をしていたが、当時のルームメイトたちと新たなバンド "The 101'ers" を結成する。バンド名は、彼らの無断居住していた住所がウォルタートン通り101番地であったことに由来する。バンドは主にロンドン市内のパブでR&Bやブルースのカバー曲を演奏していた。1975年、それまでは“ウッディ”・メラーだった通名を“ジョー・ストラマー”に改め、友人にもその名で呼ぶよう強要した。この“ストラマー (Strummer)”という呼び名はサイドギターという彼のポジションを示すものだが、自虐的な面もある(左利きの彼にドッグが右利きとしてギターの演奏方法を教えたため、結局コードをかき鳴らす (strum) 程度にしか上達しなかった)。バンドではリード・ヴォーカルだった彼は、この頃から作詞・作曲を始める。その中の一曲 "Keys to Your Heart" は、後にスリッツのドラマーとなるパルモリヴことパロマ・ロマーノとの恋愛に触発されたものであり、この曲は "The 101'ers" の1stシングルとなった。

結婚

1970年代初頭、彼はパメラ・ムールマン(Pamela Moolman)という南アフリカ国籍の女性と結婚している(これは彼女が英国に滞在しつづける為の偽装結婚で、謝礼として得た金で彼はロック活動で生涯の伴侶となるフェンダー・テレキャスターを購入している)。その後、ギャビー・ソルター(Gaby Salter)という女性と1978年から1993年まで同棲し、二女の父となったが、(パメラ・ムールマンが所在不明で離婚の手続きが取れないことを理由に)結婚には至らなかった。1993年に、当時は結婚していたルシンダ・テート(Lucinda Tait)と出会い、1995年に結婚。結婚生活は彼の死まで続いた